おもしろ歯学


岡崎好秀

岡山大学歯学部 小児歯科





▲ロバの口の方を採ってい
る。石上先生はロバが嫌が
らないか、たいへん心配された。
 東京の上野動物園の資料室にあるロバが静かに眠っている。
このロバの名前は“一文字号”。
実はこのロバ,世界で始めて入れ歯を入れたロバなのだ。
入れ歯に至った経過を説明しよう。
 このロバは,1935年,北京の郊外で生まれた。
日本軍の物資輸送で活躍したとのことで,1941年に上野動物園に送られてきた。
動物園では,子ども達を乗せた馬車を引き人気を集めていた。
 ところが1962年のある日,ポップコーンを喉に詰めて死にそうになった。
喉に詰めた原因,それは歯が悪かったことだ。
1935年生まれで,1962年のことだからロバの年齢は27歳。
しかしロバは,年に3歳歳をとる。人間で言えば80歳強になる。
歯が悪くてもおかしくない歳なのだ。
 当時の動物園の方々は,なんとかロバをもう一度噛めるようにしてやりたいと思われた。
そこで東京中の歯科医や歯科大学に連絡し,ロバの入れ歯を作ってくれる歯科医を捜した。
ロバに入れ歯なんて…。
 ロバの治療をしてくれる歯科医は簡単に見つからなかった。
「それでは私が・・。」と名乗りをあげたのが,東京医科歯科大学に勤務しておられた故石 上健次先生。
 この先生,後に昭和天皇の御殿医をもされた名医である。


⇒上野動物園に一頭の
ロバの剥製がある。




▲ロバには人口の歯がない
ので、ほかのロバの写真を
参考に歯を作っていた。
 ロバの治療の様子を教えていただくため,先生の診療室を訪問した。
先生は,当時の写真を一枚一枚感慨深けに眺めながら,苦労話を語られた。
 以下,先生から伺った内容である。

 ロバの歯の検診をしたところ,入れ歯を入れるために不都合な歯があった。
しかしその歯を抜くと,高齢のためにショックを起こす可能性があった。
そこで入れ歯を入れやすいように歯を削り,歯の型を採ろうとした。
しかし,ロバの大きな歯型を採る道具(トレー)がないので,歯科の材料会社にお願いし て,特製のものを作っていただいた。
 型を採る材料(印象材)を口の中に入れたら,きっとロバは嫌がるだろう。
「暴れたりしまいか・・。」と心配だったが,印象材のにおいが気に入ったか,じっと固ま るのを待っていたとのことだった。
 むしろたいへんだったのが,歯の噛み合わせの高さを決めるときだった。
噛み合わせが高い入れ歯をいれると,噛めないだけでなく,すぐに壊れるだろう。
なにしろロバは,何も言ってくれない。
 おまけにロバの顔の長さは四十センチもある。この状態で噛み合わせの高さを決めるのが 至難の技だった。

 次は,入れ歯の歯の部分である。
 人間の場合,あらかじめ人工の歯があるが,ロバにはない。
そこで他のロバの口元を写真に撮り,一本づつ歯をロウで型を作られた。
やっとのことで入れ歯は完成した。
 もっと心配なことがあった。本当にロバが入れ歯を入れてくれるのだろうか?

 しかしその心配は杞憂に終わった。
 ロバは入れ歯を入れた数分後,草を食べ始め,誰もが喜んだとのことである。



 野生動物は,歯を失うと生命にかかわると言われるが,ロバの一文字号は,入れ歯を入れ ることによって健康を取り戻したのである。
さてこのロバは,それから何年生きることができたのであろう?
残念ながら,3年後に亡くなった。
 実はこのロバ,羊と一緒に飼われていたのだが,ある日羊が柵を飛び越えたのを見て,自 分も超えようと思ったらしい。
 ところが柵に足を引っかけ転倒した。これが原因で腸ねん転で死亡した。
柵を飛び越えようとしなければ,天寿をまっとうできたかもしれない。
入れ歯を入れて元気になったロバの物語。とってもほほえましい話しである。
 しかし総入れ歯は,自分の歯と比べて約二十%しか噛むことができない。
やはり自分の歯に優るものはないのである。

▲入れ歯を入れて、
再び元気になった
”一文字号”




<写真は故石上健次先生提供>